令和元年五月八日付日経新聞「私の履歴書 橋田壽賀子(7)玉音放送」を通して、橋田先生の戦争体験を改めましてご紹介します。
大きな反響を呼んだ日経新聞連載「私の履歴書」の書籍化!
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橋田壽賀子(7)玉音放送
思わぬ敗戦、理解できず 海軍で戦後処理、書類燃やす
大阪海軍経理部時代
大阪海軍経理部における橋田壽賀子さんの戦争体験をご紹介します。
良家の子女ばかり
堺の家に帰れば、また母といさかいを繰り返しながらの生活が始まる。憂鬱だった私に救いの手を伸ばしてくれたのはソウルの父だった。父の紹介で大阪の蛍池(ほたるがいけ)にある大阪海軍経理部に、下宿付きで「理事生」として採用された。理事生はコネで入ったと思われる良家の子女ばかりで、軍属だったらしい父はどこかに手を回して、私を押し込んでくれたのだろう。
御母様には苦手意識があった様相の橋田先生でしたが。御父様とは何となくいい距離感のコミュニケーションが図れていたことを伺い知ることができます。
兎に角、御父様としては世間体とかを第一に御考えになったのかな。橋田先生もいいとこのお嬢さんの御箱入り。
下宿付きというのも有難かったでしょうね。
物資があふれていた
世間から食糧や生活物資がほとんど消えてしまったというのに、経理部の倉庫は物資であふれていた。食事や生活用品に困ることがない天国のようなところだった。
いつの時代も、公の部署が物資をため込んでおかない道理がない。今だって、役所とか自衛隊とかに物資がなかったら緊急時に困っちゃいますからね。
職業柄
兵隊さんに列車の切符を出すのが私の仕事だった。申告に基づいて出発地と行き先を書類に書き込み、判子を押す。行き先を見れば「この人は特攻隊だな」というようなことがわかった。
いつの時代も、何処の業界でも、窓口業務は色んな物語が待っているもの。
当時の橋田先生の場合、それが瞬時の出来事。一瞬にして出会って、一瞬にして別れる。
橋田先生の文面からは、仕事として割り切った感覚が何となく伝わってくる。たとえ相手が特攻隊に行く人だとわかっていても。
空襲
空襲警報が鳴ると部長の少将の貴重品を持って防空壕(ごう)に走った。隣は男子学生が動員されている軍の施設で、敵機の機銃掃射で学生が亡くなることもあったけれど、私は死が怖くなかった。「爆弾が落ちてもいいや。これが戦争なんだ」と思っていた。
橋田先生が意識的にも軍国少女と化していた実態。
戦争で死ぬのが当たり前といった意識を国民に植え付けた当時の軍国主義って。やっぱり恐ろしいですね。
母の安否
1945(昭和20)年7月10日、空襲で堺も焼け野原になった。一人で暮らしている母の安否に気をもむ私に、上司は「見に行って来なさい」と言った。しかも自動車まで出してくれるという。焼け落ちた家々を縫うように車は走り母が住む家に着いた。家は燃え尽きて、母の姿はない。周囲の土はまだ熱かった。
大阪海軍経理部の配慮で自動車で御母様の安否を確認しに行った橋田先生。
戦時中において、大阪海軍経理部の理事生が一般庶民よりも厚遇されていたことを物語るエピソード。
原爆
そのうち「広島に特殊爆弾が落ちた」「大変な爆弾らしい」という話が伝わり、将校たちが緊張に包まれた。すぐに「黒い防空頭巾を作れ」という命令が下され、私たちがミシンを総動員して頭巾を縫っていると「今度は長崎がやられた」と聞かされた。
大阪海軍ということもあってか、当時としては早く情報を入手できた環境だったのかも。
当時は、映像ニュースなんて、まともに入ってこない時代だったでしょうから。広島と長崎の原爆に関する将校さんたちからの音声情報。想像力を掻き立てられて、非常に恐ろしかったことと思います。
ちなみに、防空頭巾の色は黒なんですね。理由が気になるところですが。
戦争に負けた
下宿のご主人は慶応ボーイだった人で、はばかることなく「この戦争は勝てないよ。覚悟しておいた方がいい」と言っていたが8月15日、それが本当になった。
当時、おそらく洗脳されたふりをしていた国民が大勢いたかと思います。そりゃそうですよ、生活に困窮した状態で戦争に勝てる道理がない。
経理部が使っていた学校の校庭に集まれという命令で、200人ほどの理事生が整列した。
現れた将校たちは、将校の命とも言える腰の短剣を外している。異様な光景に「なんで丸腰?」という不吉な疑問がわいた。
大阪海軍が白旗をあげた合図に対して、敏感に反応した橋田先生。
聞き取れない玉音放送の後で「戦争に負けた。諸君はすぐに戦後処理に当たれ」という訓示があった。幹部はいち早く敗戦を知り、善後策を協議した上で、私たちにそのことを指示したのだろう。
「アメリカ兵が上陸して来る」というので、直後から校庭に大きな穴を掘って三日三晩、書類を燃やし続けた。
書類の隠蔽(いんぺい)、橋田先生が軍国少女としての最後の仕事だったみたい。
ススまみれになりながら「戦争に負けたというけれど、それはどういうことなのだろう」と考え続けた。アメリカの兵隊が日本を占領する。そして日本人がみんな死ぬ。そんなイメージしか浮かばない。
こうした橋田先生の感覚、当時としては極めて一般的だったんでしょうね。
それは、沖縄戦の悲劇からも察することができます。
このあたりは奥が深すぎるので「敗戦国の女子(おなご)」の項でもう少し随想したい。
母は命に別状なし
そのうち浜寺の伯母から「お母さんを預かっている」という知らせがあった。母は空襲で目をやられたが、逃げおおせて命に別条はないという。ほっと胸をなで下ろした。
お知らせは電報でしょうか。
昨今のように容易に情報を伝達できる時代ではなかったでしょうから。
本当に心配だったことでしょう。
退職、そして東京へ
米軍は一向に姿を見せず、特にすることもないまま10月になり、女子大が再開されることを知った。経理部からもらった退職金、制服の生地、食べ物を手に、大阪から鈍行で東京に向かった。
戦争が終わって東京に向かった橋田先生。
おんな脚本家の先駆者としての歩みがはじまります。
敗戦国の女子(おなご)
当時の日本の女性は、戦争に負けたことでアメリカ兵から手籠めにされることを恐れない道理がない。
故に、手籠めにされるくらいなら死を選ぶといった感覚が、やはり橋田先生には沁みついていたのかもしれない。
このあたりについては、橋田先生はNHK大河ドラマ『おんな太閤記』第十九回「三木城攻略」の一幕を通して、しっかりと描写しています。
織田家が敗戦国の女子に対する狼藉を禁止した一幕です。
しかしながら、戦国時代においては、敗戦国の女子(おなご)たちが戦勝国の武士たちに手籠めにされることが結構あったみたいです。これが、悪い意味での乱世の習い。
第二次世界大戦においても、敗戦国の女性たちが戦勝国の兵士から性的被害の対象にされました。
そして、日本の女性も例外ではなく。
やはり、敗戦国の日本人女性が性的暴行を恐れない道理がない。
「これで最後です さようなら 1」 #樺太 #電話交換手の悲劇
1945年の今日、ソビエト軍が #真岡 に上陸。電話交換手の女性たちは、砲弾や銃弾の音が聞こえる中、業務を続けました。そして9人が、自決用の #青酸カリ を飲みました。
最後の声を聞いた栗田さん⇓ https://t.co/FTjjZelHhJ pic.twitter.com/6RJPy4Nzk0— NHKアーカイブス (@nhk_archives) August 20, 2020
特にヨーロッパでは、ソ連兵が敗戦国の女性たちに対して、性的虐待による尋常ではない辱めを与えていました。兎に角、個人的にはソビエト連邦の所業を許す道理がない。
こうした辱めを受ける前に死んでしまった方がましだと思うのが日本人女性の尊厳だったのかもしれない。
平和の世の中で育った現代人が、沖縄戦などで自決された方に対して生きる選択をしてほしかったと思うこと。それは、もしかすると無理があるのかもしれない。当時、アメリカ兵から性的暴行をされない保障はなかったでしょうから。ましてや、戦後の日本が経済大国になるなんて想像ができないのが道理。
兎に角、戦時下における死の選択の是非。奥が深すぎて難しい。
まとめ
日本経済新聞5月8日付朝刊「橋田壽賀子(7)『玉音放送』」をご紹介しました。
改めまして、戦争で亡くなられた方々に心からご冥福をお祈り申し上げます。
大きな反響を呼んだ日経新聞連載「私の履歴書」の書籍化!
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